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残留婦人、激動の生涯を閉じる

 今月2日、残留婦人として中国から帰国した鈴木サタさんが入院先の病院で亡くなりました。86歳でした。サタさんは、郡山駅近くの生まれで、19歳の時中国満州へ渡っていますが、戦争中も戦後も激動の人生だったと思います。

 

サタさんの帰国は28年ぐらい前、国の帰国事業が始まってから間もなくだったようで、あとから続く帰国者の相談にのって世話をしていたそうです。

 サタさんの息子さんは結婚し、現在中国にいます。その息子さんは数年前にサタさんと音信不通になり、サタさんの友人も心配して何度か市役所へ尋ねましたが、市は個人情報をタテに教えてくれなかったといいます。
 サタさんは、ひとり暮らしでがまんを重ねていたのでしょう。病気で倒れていたところを発見され入院していました。
 
 04年8月危篤状態になりましたが、その時は国の人道的はからいもあり息子さんが一時帰国できたおかげで回復しました。
 
 ところで、來往会が県に中国帰国者通訳派遣事業を要望するきっかけは、こうしたサタさんのことをめぐる県や市など行政側の対応からだったといいます。

 今回、來往会としては初めての葬儀でしたが、ボランティアで事務局をしている川崎さんたちは「年老いた残留婦人の3人が市役所に通って"何とかしてあげて" という思いに応えたい」と奔走し、その熱意に病院側はもちろんのこと、葬祭場の協力も得られ、法蔵寺のお坊さんからは心のこもった読経や供養を頂いて、ささやかながら無事見送ることができました。

 息子さんは一時帰国した際に、市役所や入院先の病院へサタさんの万一の時の依頼文を手渡していったのですが、その中には母親あての追悼文も用意されていました。4日の葬儀の中で読み上げられましたが、母親を誇りに思う心情があふれていて涙がこぼれました。今月半ばには遺骨を引き取りに来日されるそうです。

 「どんな人生を歩んできた人も、最後の時間はとても大切です」と川崎さんがしみじみ述べていますが、問題はこれからです。帰国者への市の対応については、今後の私の課題にしたいと思います。
                               

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