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戦後64年目の夏                                              平和のための郡山の戦争展は15日まで

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 13日は、郡山市公会堂で10日~15日までの日程で開かれている「平和のための郡山の戦争展」をみてきました。今年で28回目です。

 軍都と呼ばれ戦争に協力していた郡山は、3度のアメリカ軍の空襲を受けました。終戦を迎える年の1945年4月12日には、航空機のガソリン添加剤をつくっていた郡山駅周辺の保土ヶ谷化学工場や日本化学工場、日東紡工場などが大空襲を受けて多数の犠牲者がでました。

 7/29には、模擬原爆も投下されました。そして、8/9~10の金屋飛行場(現在の中央工業団地)の空襲の犠牲者を含めると死者は計538人となっています。

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 会場には、当時の衣類や軍服などが展示され、この中に男児誕生のお宮参りの着物旗が展示されていました(写真:私の右後方にある緑色の縦布)。絵柄をよくみると、ゼロ戦などの戦闘機が・・・。

 お国からは産めよ増やせよといわれ、男の子はやがて兵器の1つとなって戦場へ送られて行くのです。母親としては何と切ないことでしょう。こんな時代を絶対繰り返してはなりません。

 今度の総選挙で、憲法を変えて戦争ができる国にしようという自民・公明には政権の座から退いてもらいましょう。ただし、民主党も憲法を変えるという点は同じですから、憲法を守る共産党を一緒に伸ばして下さい。

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コメント

戦争展が開かれたようですね。

毎年開かれているようで1度みたことがあります。

自分の従軍の思い出をひとこと述べてみます。

まず、それほどの悲壮感はありませんでした。

幕末の志士気分で
「君がため朝霜踏みて行く道は
尊くうれしく悲しくありけり」と元気に出発したものです。

こんな人は少ないようでした。

戦地に向かう列車の中でいろいろそんな話をしたら

同乗の他の部隊の幹部候補生が

「お~い、ここに憂国の志士がいるぞ~う!」

と叫んだほどでした。

出発の朝はお天気がよく
玄関で見送るのは家族だけ、蓬田嶽に別れを告げ、ひとり

10キロの山道を小野新町駅へと急ぎました。

中国の第一線で戦い、復員、博多に上陸して、

国内の都市が空爆されたことを初めて知りました。

博多港の脇に掲示された230の被災都市の地図に驚き、これでは負けるはずだ、と思いました。

それは、中国の戦闘では終戦まで15年間一度も敗れてはいないうえ、なんにも知らされていません
でしたから。戦争に敗れても停戦と告げられただけ。

神のような心境でいたようです。出征の際遺書と遺髪を残し○○の命(みこと)と裏書したものが今も
手元にあります。結核の病床から現役出征し、生還できたのが不思議です。敗歌今日幾人か還る!

の思いです。

(続いて)
まず、戦争ってどんなことだったのかを知ることが大事でしょう。

そうでないと従軍者の話が不思議に思われることがたくさんある。

病床から戦場へ?それで生きて帰られた?…ウソだろう、と、

事情説明は長くなるので要点だけ述べます。

結核の療養は栄養と静養以外術がない時代、あとは死を待つだけ。

栄養といえば物資窮迫の時代、タマゴと蛇が手短なご馳走。

仙境に住み、魚は届かない、地域の人は濱から仕入れたものを味噌漬けにしておき、肉などない。

母が村中駆け回り3拝9拝して卵数個手にし、見るだけでも恐ろしい蛇をとぐろ巻くものを同じく手に入れる。何十匹たべたことか。

無医村なので隣村から週一度来る医者が頼り。X腺設備もなく胃腸薬をくれるくらいの療法。

徴兵検査に出頭したら治癒していると言われた。ホントかな。

仙台に入隊し再検査でも「即日帰郷」を免れ喜ぶ。さらに戦地に出発のため「3種混合摂取」やら再々検査もパス。兵種は最低の第3乙種、そんなのできたばかり。

すぐに出陣式。4百人を代表して挨拶を行い、部隊指揮して進軍。

装備は小銃は5人に1丁、竹の水筒は7人に1つ、飯ごうはゼロ、背嚢は背負袋。帯剣唯一つだけ。

中国の前線に着いたときは体重が
30キロ台になっていた。入隊時60キロあったものが。出発時このうち前線に着くのは2割が相場と。それからが大変。(つづく)

戦争展を見、聞きしていちばん感じることは現在は個人が尊重されていて、いいなあ、と思う。

わたしたち戦中派は、「戦争」よりも社会環境・異常な軍隊組織。人間扱いされず、虫けら以下の状態に置かれたことの思いが痛烈。

大義が山よりも重く、身は鴻毛よりも軽い、とされた。一髪土に残さずも誉になんの悔いやある、と

弾丸に当たって死ぬ人は幸運の方で90%位は悪環境で病死です。

どこで果て、どんな無残な姿かも知らされず、不憫でなりません。

原爆空爆特攻などは羨ましい位?
りっぱな服装丸々太り人情の交流豊か、手紙も書き残し花のよう。

わたしたちのまわりは、幽鬼のようにやせ細りボロ服着けても、裂帛の気迫が漲り明日死に行く人とはとても思えない朗らかな顔々。

しかし人間的感情は消えていた。

行軍中休憩になり、丸裸になって虫取り中、土手の下を土地の若い娘の集団が怒りながら過ぎて行った。なんで怒ったのかだれも知らない、しばらくしてから、「あっ、そうだ!行儀が悪いのだ」「ああ、そんなことあったっけなあ」あわてて前を隠した。もう遅いよ、彼女たちは遠くに消えていた。20歳の純真な群れ、死の行軍のひとコマである。

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