県議会の日中議連代表団で中国湖北省へ 出発時の大失敗
今月の1日~5日まで、県議会日中友好議員連盟の中国訪問代表団の1員として湖北省へ行ってきました。
日中議連は、議員が会費を出し合って講演会を開いたり、年1回は10名程度の代表団で中国を訪れ交流しています。今年は、県と友好都市を結んでいる湖北省を訪問するというので、私も初めてですが思い切って代表団に加わりました。戦前、福島県からも出兵し旧日本軍が加害者となった場所でもあるからです。
今回の代表団の目的は湖北省県議会との交流と、上海、武漢、宜昌を訪問し今年竣工する三峡ダムの参観などです。
私は、中国は3回目。と言っても、2回は県議会商労文教委員会の県外視察で、県が新設した上海事務所の調査でした。ですから、上海以外の中国内陸部に入ったのは今回が初めてです。
【武漢のホテルから】
それにしても中国は本当に広い国でした。福島空港から上海まで飛行機で2時間半。上海からさらに国内線に乗り換え、湖北省の省都武漢まで飛行機で約1時間半かかりました。
武漢のホテルに宿泊し、翌日は、大型バスで武漢から高速道路を300数十km(福島~東京間よりも長い)をひた走り、もう1つの都宜昌へ。さらに、宜昌の中心部から長江(揚子江)上流にある三峡ダムへ。宜昌のホテルで1泊。
上海ほどではないにしても武漢も宜昌も高層ビルが立ち並ぶ大都市でした。武漢と宜昌の都市をつなぐ高速道路はどこまでもまっすぐ伸び、その沿線には綿花畑が延々と続き、ときどきため池もみえます。
西にすすむにつれて緯度が下がるせいか畑の緑もだんだん増え、綿花畑では綿を摘む農夫の姿もみえ、ため池では川魚の養殖やレンコンなどの水性野菜が栽培されているようです。政府が、都市部だけでなく、住宅補助などの農家支援をすすめているそうですが、新しい農家の住宅もたちならんでいました。
農家の家は、私が想像していたのとは違って赤土を固めた素朴なレンガ積みの2階建てが多く、どこかヨーロッパの風景のようです。イスやベッドを使う生活様式からみても日本とは違うのですね。
【三峡ダムが一望できる公園で】
【ダムの下流。帰路はすでに夕暮れに包まれて】
三峡ダムは人里など全くない山の奥地かと思いきやそれほどでもなく、これから観光地として大勢の観光客が訪れるだろうと思います。ダムまでの標高差はわずか270mしかなく、揚子江がいかにゆったりとした流れであるかがわかります。
【上海でリニアモーターに乗車。最高時速は301kmでした】
【上海事務所の市村所長さんと】
ところで、私は初日に大失敗しました。それは、福島空港で古いパスポートを出したため出国できなかったのです。そのため、丸1日遅れでみなさんと武漢で合流したわけです。
実は、2回目の上海行きの時パスポートを紛失し再発行していました。あとで見つかったのですが、古い方をきちんと処分していなかったのが原因でした。
私は、空港の出国窓口で指摘されるまで全く疑いもしませんでした。みなさんの前で恥ずかしいやら、がっかりやらで気落ちしたのですが、「あとからぜひ来てよ」とみなさんに励まされ、自宅に戻って捜したら新しいパスポートが見つかったので、すぐに旅行会社と連絡を取り再手配してもらい、旅行会社の方などにお世話になりながら成田から上海、上海から武漢へと無事到着しました。夜の10時を過ぎていました。
ちょっと心細かったのは、上海空港で武漢へ行く飛行機が小1時間遅れ、中国語と英語しか通じない中に置かれた時です。幸い、日本人の方が1人いて様子が分かりましたが。飛行機が無事飛んだので良かったものの、前日福島空港から上海を経て北京へ行ったグループはここで7時間遅れたそうです。
みなさん、パスポートを再発行された方はくれぐれもご注意を! 私の恥ずかしい失敗談をあえてお知らせし、同じ失敗がないよう願っています。
コメント
なつかしい湖北省!
湖北省便り有難うございます。
わたしの第2の故郷みたいです
従軍中の大むかしのことです。
飛行機で1、2時間で着くとはうらやましいです。
わたしどもは全部徒歩(行軍)で何千キロも突破です。
従軍者の約90%は行軍による過労死でした。
かぜをひいたらオシマイです。
いまの風景をお知らせいただき往時を思い出しています。
わたしは宜昌の近く当陽市で3ヶ月過ごしたのち前線に出ました。
仙台市を出発して2ヶ月かかりました。極限の窮乏生活でした。
しかし山中の掘っ立て小屋に住み、夜、山中を歩き回ったので
付近のことはまったく知りません。山また山、人影もない。
無銭旅行なので仕方ありません。
県庁国際課の本田良子さんや中国人の方には当陽や湖北省のことで大変お世話になりました。
最近本田主幹は亡くなられたそうです、50歳位で。
宜昌近くの沙市に師団が永く駐留したため交流が生じました。
わたしも先輩兵から沙市小唄を教わり時々口ずさみます。
戦後付近のことを調べ、三国志ゆかりの地なのを知りました。
とりわけ、関羽将軍は有名で、横浜の中華街の関帝廟にときどきお参りしています。思いつくまま。
投稿者: 山男 | 2009年11月15日 15:11
戦時中に兵隊としてここへ派兵させられたのですね。私がみてきた風景とはまったく違うでしょうね。状況も時代も全く違うのですから・・・。
東アジア外交をすすめることは大事なことですが、政府として戦前の加害の歴史をきちんと謝罪してこそ、本物の外交が開けると思っています。
投稿者: 神山悦子 | 2009年11月16日 17:18
「武漢から宜昌まで300余キロの高速道路」とはオドロキです。
同じ道をわたし達は重荷を負い
歩け歩け、7日間初行軍で体重60→39キロ、頬はこけて。
途中、雁門溝で敵襲のドンパチ。でも宜昌手前での大福もちが忘れられません。
3ヵ月後その道をリターン行軍
こんどは鼻歌まじり楽チンでした
訓練で体力がついたのでした。
そして武漢から桂林へ死の行軍!
大分戦死しました。
投稿者: 山男 | 2009年11月22日 11:52