
【長崎原爆が投下された爆心地を示す碑~郡山の代表団】
6~9日まで、県内から50数人、郡山原水協からは9人が参加し、郡山代表団の団長として長崎で開かれた「原水爆禁止2009年世界大会」に参加してきました。長崎は連日35℃を超える猛暑でしたが、4日間とも晴天に恵まれました。
7日の世界大会の開会式が始まる午後3時半までは自由行動だったので、みんなで長崎市内の原爆が投下された爆心地碑に持参した折鶴をささげたり、ブロンズの平和記念像がある平和公園では、長崎の鐘をみたり、「水を下さい」と被爆者が言いながら死んでいった井戸があった場所には当時9歳だった少女の言葉の碑文が。

【原爆で天主堂が破壊し、司祭・信徒30人が即死したという浦上天主堂。1959年と80年に改装され、小聖堂には被爆した木製のマリアの顔が安置されて・・・(夫と)】

【原爆の爆風で35mも吹き飛ばされ、天主堂北側の川べりに当時のままになっているアンゼラスの鐘を響かせていた鐘楼ドーム】
初めてみる長崎市内はどこも急峻な坂道ばかりで、小高い山のてっぺんにまで住宅がびっしり続いています。それが、稲佐山頂上展望台からみると、まさに「100万ドルの夜景」となって観光客を魅了させるのです。
その長崎に、64年前の8月9日午前11時2分、アメリカは広島に続き2回目の原子爆弾爆を投下しました。最初、長崎の軍司令部があった長崎市街地からは、山の陰で被害状況がよく把握できず、国への第1報は「被害は小さい」と報告したそうです。しかし、7万人が犠牲になりその後遺症は今も続いています。
そのことを、長崎原爆資料館でボランティアガイド(今年90歳の男性でした)から、長崎市内の模型図を前に説明を聞いてようやく位置関係がわかりました。
ところで、広島に投下された原爆はウラニウム爆弾、長崎に投下された原爆はプルト二ウム爆弾でした。それを戦後、技術的には未確立なまま、原子力の平和利用として原発で電気を発電するしくみをつくったのです。
さらに、わが県でも問題になっているプルサーマル計画は、プルトニウムを燃やそうとするものです。つまり、どちらも核兵器・核爆弾をつくった軍事技術から転用したものなのです。
また、ウランを精製し濃縮加工する過程で生まれるのが劣化ウランです。これをアメリカは兵器に利用し、イラク戦争でも大量に使用しました。
そのため、イラク国内では子どもたちや大人が日本の原爆被爆者と同じ苦しみを味わされていることを告発したのが、海外代表として挨拶したイラク人の20才の女性。この若く美しい女性は、最後に「地球上から核兵器廃絶を」と連帯のよびかけを行ない、ひときわ参加者の注目を集めました。

【世界大会会場~閉会行事に参加する福島県代表団】
今回の大会は、海外代表も日本の平和団体代表も、オバマ米大統領のプラハでの核兵器廃絶発言に触れない人はいません。そして、オバマ発言を評価しつつも、それを本当に実行させられるか、来年のNPT国連の核不拡散条約の見直しに結びつけられるか、それは私たちの世論と今後の運動にかかかっていると強調されました。
しかし、それに逆行しているのがわが国の麻生首相です。「核の傘」、「核抑止論」に固執する発言にはあきれますし、唯一の被爆国日本の首相として恥ずかしい限りです。