相双民商・相馬地方卸個買・仲買組合が東電と賠償交渉

9日、民商県連・相馬地方の卸個買・仲買組合のみなさんが、弁護士とともに県庁内でこの間の賠償請求で闘ってきた経緯と成果、今後の運動などについて記者会見を行ないました。さらに、東京電力と賠償問題で交渉。私も同席しました。

 

参加したみなさんや県連からは、最近東電の賠償窓口の対応のあり方や、書類提出の強要などを含めて強圧的な姿勢について質すとともに、これまでの対応でお互いに確認してきたやり方を再確認させる場面が少なからずありました。

また、東京電力は、昨年の事故発生した3月と4月分、加工業者・小売業者は4~5月分という差を設けた理由ついてあらためて見解を求めましたが、納得できる回答はでないため、後日現場も見た上で文書での回答を求めました。

一方、参加者からは津波で漁港が壊れても、3/27の魚介類の出荷停止がでるまでは、漁業者たちは壊れていない船を集めて再開に向けて準備をすすめていたと実状を述べました。 言い換えれば、原発事故さえなかったら3月下旬の時点で漁業が再開できたはずなのです

しかし、東電は事故は津波によるものであり、賠償の対象にならないと一貫して主張しています。事故の検証作業もされていないのにどうして津波の生だと断定できるのでしょううか。賠償に関わってくるので、事故をできるだけ小さくみせようとしている姿勢がありありです。

津波で亡くなった遺体の復元ボランティア、女性納棺師・おもかげ復元師/ラジオ福島の番組で紹介

毎週月曜の夜7時~9時のラジオ福島の「月曜Monday(もんだい)夜はこれから」は、大和田新アナの今年4月からの新番組で、インタビューしたり討論させたりしている番組です。

実は、私も今年7月9日、この番組に20分間でしたが共産党県議として電話出演させていただきました。福島の復興についてがテーマで、消費税増税問題、TPP、原発再稼動など20分の持ち時間で本県選出の吉野正芳衆議院議員と意見を交わすというものでした。

このラジオ番組は、ユーストリームでインターネットでも見ることができます。ただ、私が出演した時間帯とその前に出演した公明党県議が話をした約1時間の部分は、なぜかユーストリームにつながらず、ちょうど私の話が終わったあとから配信されています。

私が、消費税増税問題などを批判した意見を述べたせいかどうかはわかりませんが、みなさんにも録画でみてもらうことができなくなって非常に残念です。

さて、きょう8/6の今夜は、岩手県北上市の復元納棺師、笹原留依子さんの活動の紹介でした。彼女が関わった遺体とその家族について書いた本の朗読を聞いて涙がとまりませんでした。

女性の納棺師というのは、私は初めて知りましたが、この方は東日本震災の津波で亡くなった損傷激しい遺体の復元ボランティアをされています。

写真も流されてしまってない中、遺族の方から話を聞いて生前の姿を想像して元に戻していくというのです。顔だけでなく、必要とあれば手や足も復元して家族と対面させる。これまで300人復元したそうで、福島県でも行なっています。

今年1月、社会に喜びや感動を与えた市民に贈られる「シチズン・オブ・ザ・イヤー」賞を受賞されました。

今週、笹原留依子さんが出版した「おもかげ復元師」「おもかげ復元師の絵日記」がポプラ社から発売されます。また、NHKテレビが、今月17日夜10時から彼女の活動を放映するそうですので、あわせてご紹介します。

仮設で暮らす原発避難者の思いを共有して~東京からバスで参加

8月6日、きょうは広島に原爆が投下されて67年たちます。原発は、この核兵器の「平和利用」などといって推進してきましたが、結局ウランを使う技術を持たないまま、しかも安全神話をふりまいて何の対策をとっていなかったことが、今回の事故で明らかになりました。

きょうは、東京から2つの団体が、バスを仕立てて先に宮城県をみて郡山市富田町の仮設へやってきました。郡山の木村さんのお知り合いの方の企画です。

富田町の仮設集会所で、避難している富岡町の方と川内村の2人の方から当時の生々しい体験をうかがいました。私たち郡山のスタッフも一緒に聞きましたが、胸がつまりました。

富岡町の方は、原発事故で家族・親戚・友人・知人もみんなバラバラにされた、とその苦しみを涙がこぼれそうになるのをこらえながら話してくれました。

また川内町の方は、避難してくる富岡町の住民を受け入れていた当時のようすや、原発関係の仕事をしてきた、防護服をきて汗だくになっても顔をぬぐうこともできない中での作業の大変さをリアルに表現。

2人とも共通して最後は「原発はもういらない」でしめくくりました。私も県議会のようす、原発ゼロの福島をつくるため「オール福島」を大切してこの1年やってきたことなどを報告。

 私からも2人の話にふれながら、県議会での論戦のようす、とりくんでいることなどを報告。最後に、東京のみなさんから合唱を披露していただきました。

私たちはよく、他県の方から「どんな支援がほしいですか」と聞かれるのですが、まず「原発避難者の生の声」を聞いていただくこと、これが何よりもありがたいことです。

2つの平和行動~朝顔まつり・オスプレイ配備反対宣伝署名

5日(日)、午前中は、坪井さんが主催する「朝顔まつり」に参加。満州、撫順の戦犯管理所ゆかりの朝顔の種を譲り受けた坪井さんが、勤務している富田町の公民館で毎年咲かせています。

   【「赦し(ゆるし)の花」の本と、その本にまつわる種をもらいうけ育てた坪井さんとその朝顔】

 坪井さんがほとんど1人で準備し、ここを1日借りて一般の人にも開放。ゆるしの花あさがおの花のピアノ演奏、原爆パネル展、平頂山事件弁護団の大江京子弁護士の講演会も。会場には朝顔に関する絵画、写真、書籍、手ぬぐいや小物なども多数展示。

          【子どもたちが制作したという立体的な朝顔の絵の前で】

 

 

 

 

 

 きょうは、ピアノ演奏や原発カルタとりなどに参加しました。秋田平和委員会の伊藤さんが坪井さんの応援にかけつけ、また被災者への支援物資ももってきてくれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

げんぱつカルタを制作したのは、若いママのこちやけいこさんという方。カルタを読み上げた森さんは朝顔のゆかた姿です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午後は、沖縄に連帯して駅前で午後3時からオスプレイ配備反対の宣伝署名行動に参加。きょう、沖縄ではオスプレイ反対の県民集会を予定していましたが、台風接近のため集会は延期された模様です。

通行人の反応は思ったよりも良く、足を止めて署名をしていく人も多く、チラシの受け取りもよかったです。

 

 

 

 

炎天下での行動は心配でしたが、台風接近でこちらも生暖かい風が吹きしのぎやすくなり、1時間の行動に20人以上が参加しました。

 

原発被災者の会の役員に参加

 

29日、「原発被災者の会」(会長豊口さん~浪江町)の役員会を郡山の仮設住宅内の集会所で開くとの案内を頂き、高橋喜治市議と一緒に参加しました。この会は、双葉地方の原発被災者の住民がつくった会で、6月県議会にも請願書を提出しています。

 

   私たちが役員会に参加案内を頂いたのは初めてでしたが、国会議員、県議会議員、双葉町村議員なども案内されていたようです。朝9時半から夕方まで、会としての今後の取り組みの仕方について意見交換しました。

ちょうど経済産業省が、7/20に財物補償などの賠償支払いの考え方を公表したばかりですので、この賠償基準では新しく家を求めることなどできないとの意見も出され、今後国・県・市町村へ要求書を提出する方向となりました。

炎天下の東京代々木公園、「さよなら原発」集会に17万人/福島県から1,100人が参加

16日、作家の大江健三郎や澤地久枝さん、落合恵子さん、瀬戸内寂聴さん、音楽家の坂本龍一さんら9人が呼びかけ人になって、「7・16さよなら原発10万人集会」が東京代々木公園で開かれ、炎天下の中目標を大きく超える17万人が参加。

私も、郡山のみなさんとバスで参加しました。郡山からは、共産党や郡山地方労連などで大型バス3台と医療生協と農民連がそれぞれ大型バス1台ずつ計5台で参加。

この他、教組関係などもバスを数台出したようです。参加者には、富岡町からの避難者始め、今回初めて参加された方がたくさんいました。

朝7時20分頃に出発、会場には11時過ぎに到着しました。バスから降りた途端に歩道は人、人、人で大渋滞。

 

私たち東北・北海道はメインステージがみえない、公園内のストリートを封鎖した場所が指定場所。暑いので木陰がたくさんある公園内で午後1時から始まる全体集会、1時半からのパレード出発をまちました。

 

1時30分から先頭隊のパレードが始まっても、私たちがようやく歩き始まったのは2時過ぎ。きょうの赤旗報道によれば、最終出発隊は夕方5時 10分だったそうですが、17万人もの参加者のすごさを物語っています。

福島県や郡山の各団体のみなさんと共に「原発要らない」、「再稼動やめよ」とラップで唱和しながら、新宿駅までの2、7kmをパレード。炎天下でしたが、時折気持ちいい風が吹きぬけていってくれるので助かりました。

「福島県」や「郡山」ののぼり旗がみえると、沿道や他県の参加者からも大きな拍手をいただくと疲れた足にも力がわき、お礼の拍手や手を振って応えました。

往復のそれぞれバスの中で、私も6月県議会のようすや、野田政権になって、消費税増税、TPP、原発再稼動、沖縄普天間基地への危険なオスプレイ配備まで悪政のオンパレードを民自公3党で推進していることを指摘。共産党をももっと大きくしてほしいと訴えさせて頂きました。

現職高橋ちづ子衆議院議員(比例)の議席は、まさに東北被災県民の命綱です。これに、選挙区から1人でも多く押し上げていきたいと思います。

ご近所付き合いの旅行会~宮城・岩手の被災地へ

30~7/1は、私の近所づきあいの旅行会で、被災地の宮城県と岩手県へ行ってきました。宮城県は、松島を遊覧船でまわり、比較的被害は少なかったようですが、奥松島の被災はすさまじいものでした。

ここから、南三陸町の津波被害地へ。防災無線で町民に呼びかけ続けて亡くなったあの20代の女性職員がいた防災対策庁舎へ。

 ここもすさまじい津波による破壊。防災庁舎は鉄骨がむき出しのままでした。たくさんの花などの供え物、そしてお線香も備えてありました。みんなで手を合わせました。誰かが、「テレビで放映されたあの時の声が耳に残っているな」とつぶやきましたが、そうです。ここがその現場だったと思うと、どんなにか恐ろしかったことか。想像を絶するものを感じ、身震いしました。

 

 

 

 

 

 

 

【津波が山間の内陸部まで押し寄せたことが、杉の木が枯れているのをみても分かります】

 

 

 

 

さて、この日は岩手の花巻温泉に宿泊。そこには400種類ものバラが咲き誇るばら園があるのが分かり、夕飯までのひとときを女性ばかり3人で行ってみました。香りも種類もすばらしく、被災地で受けた衝撃がだいぶ癒された思いです。

 

 

 

翌日は、宮沢賢冶記念館、遠野、カッパ淵などの観光地をめぐり、無事帰路につきました。

中田町バレーボール大会/二本松市で県母親大会開催~シンポジウム「福島で生きていきたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【これは第1回目から使っている式次第でしょうか。13回の歴史を感じます】

 

24日、朝8時半から中田町バレーボール大会の開会式へ。11チームが参加。私もかつて一緒に試合に参加していたのに、随分遠い昔のようです。選手のみなささんは、みな生き生き輝いていました。

 また、二本松市立二本松北小学校で第55回県母親大会・第9回あだち母親大会が開催され、私は河川の洪水被害があった方へ現地調査があったので、お昼少し前に会場につきました。

午前中は9の分科会と2つの特別企画が各教室で開かれ、午後は、全体会。会場となった北小学校の子どもたちによる「剣舞」でオープニング。

全体会の開会行事で私たち県議団から3人が壇上で紹介されました。実行委員長の挨拶の中で、二本松市は全部の学校の教室にエアコンが設置されていると述べると拍手がわきました。その二本松市の教育委員長が来賓を代表して挨拶されました。

さて、シンポジウムは「福島で生きていきたい」~くらし・なりわい・子育て・・・日常を取り戻すために~と農家の菅野さん、子どもチームの佐藤さん、教員の狩野さん3人のシンポジストが発言。コーディネートは、清水修二福大教授でした。

有機農業を営む菅野さんの話から、農地の除染のあり方や米や野菜などのセシウムのつき方の違い。食品安全基準や調理・加工による低減方法を聞いて、数値でそしっかりつかむことをもっといろいろな場面でやって、生産者・消費者で学習していくことが大切と思いました。

佐藤さんと狩野さんの話から、福島の子どもたちが置かれたようすと課題、この子どもたちへ負の遺産を残さない大人たちのたたかいをこれからもと強く思いました。

【北小学校の校庭の隅には、除染した土が積まれていました】

 

兵庫から仮設訪問ボランティア

 23日、兵庫県から仮設訪問ボランティアにきていただきました。すでに、昨日から来てきょうの午前中まで支援に入っていただいたので、私も挨拶にいきました。兵庫からは国政選挙の予定候補者3人です。

 私は別の用事があって行動は一緒にできなかったのですが、参加者のみなさんへ、先日の兵庫県の赤旗まつりへ招待とカンパへのお礼を述べながら、6月県議会のようすなどを報告しました。

川内村の仮設には、兵庫から支援いただいたお米を小分けにしたものを持って、兵庫の3人と郡山の地元のボランティア、岩崎真理子市議も参加し聞き取りに出発しました。

県革新懇/総会&鈴木浩福大名誉教授の講演会

16日、午後は県革新懇の総会と学習講演会がありました。県革新懇は結成から今年で30周年です。長尾代表が挨拶し、全国大会の報告もしました。

総会のあとは、鈴木浩福島大学名誉教授の講演。福島県の復興計画策定と避難自治体の浪江町復興ビジョンの策定に関わっての講演でした。

県の復興ビジョンには「原子力に依存しない県づくり」を明記し、浪江町の復興ビジョンには「どこに住んでも浪江町民として1人ひとりに寄り添う」と明記。どちらも画期的なものとなりました。

復興というと、大きなビジョンを描こうとするが、特に今回のような広域で未曾有の災害は、復興には相当の時間がかかる。それでは被災者が何年も待てないし、持たない。

「緊急的対応」を打ち出し、被災者を支援することが、必要だとの指摘にはなるほどです。

民主党政健のような政治主導で官僚をあてにしないやり方では政治の混迷を招くだけ。官僚のもつ行政の蓄積を十分生かすべきとも。同感です。

また、鈴木教授は、復興をすすめる上でも、被災者を真に支援していくためにも、県の役割が非常に重要だが、その姿がよくみえていないと。

最後に、「私たちは、次の世代に何を残してやれか」この観点で頑張っていくべきではないかとギリシャアテネ人の言葉を紹介し講演をしめくくりました。