29日は、二本松市東和支所に避難している浪江町の場場町長を訪ね義援金の目録を手渡しました。浪江の馬場町議と二本末の3人の市議団も同席しました。
馬場町長からは、津波にあった町の被災後にとった写真をみせていただきながらお話を伺いました。ここは4回目の避難所とのこと。
聞けば、「津波警報で役場に避難していたが、そこも危なくなり高台へ。そこからもっと内陸部の津島の小中学校へ避難させ2泊3日いたが、電話も通信も途絶え、食料のおにぎりも1家族に2個程度しかないなど、陸の孤島だった。
そこから二本松市へ移動となったが、頼んだバスの運転手が浪江と聞いただけで引き返してしまった。浪江と原発放射能を結びつけた風評被害で、なんとか別のバスを確保してここへきた」とのこと。まさに、地震、津波、原発、風評被害の4重苦です。「津波被害後、住民の救助を翌朝からと決めたその同じ時刻に、国から原発半径20キロ圏内の避難指示が出たため、捜索ができなかった。助かる命もあったかもしれない。
ようやく自衛隊と警察とでこれから捜索することになって、遺体安置所は津島の小中学校に決めた」と・・・。
県議団への要望書も受けました。「問題を困難にしている大きな原因は東電の原発事故である」と厳しく述べ、一刻も早く収束してほしいと。
東電に対しては、謝罪は町長の私にではなく町民1人1人にしてほしい。避難所14ヵ所を全部まわって謝罪をといったが返事はなかったとのこと。職員が本来の業務にも戻れるように東電へ人的支援を要請したそうです。
郡山のビッグパレットには富岡町の遠藤町長と川内村の遠藤町長のほ2人の首長がいるので、ここにも義援金をお届けしました。
富岡町長は、これまで原発立地町のまとめ役として、水原発もプルサーマルも推進の立場でしたが、「神山さんや共産党のみなさんの厳しい指摘どおりになってしまった」と。
「もう原発にたよるまちづくりはやらない。第一も第二原発も廃炉しかない。細く長く安心できるまちづくりをゼロからスタートさせたい。若い人は戻って来ないかもしれないが、中高年以上はやっぱりふるさとで暮らしたいはず。私も戻りたい気持ちがいっぱいだ」と苦しい心情を述べてくれました。
川内村長は、子どもたちの学校をどこに決めたたらいのかと親の思いを述べ、仮設住宅についても要望がありました。