8日、市内富田公民館で、昨年に引き続き今年も「赦しの花~あさがおまつり」が開かれました。
これは、中国に侵略した日本人兵士が旧ソ連軍の侵攻によってシベリアへ抑留されたのちに、約1000人が中国へ引き渡され撫順戦犯管理所へ収容されました。しかし、中国側は、日本人捕虜に人間的な待遇を貫きます。
〝罪を憎んで人を憎まず〝ということでしょう。そして、日本に帰国する時ここで咲いていた朝顔の種が渡されました。それを大切に持ち帰ったある兵士が反省の思いをこめて大切に顔を育ててきたのが、06年に「赦しの花・あさがお」という絵本で出版されています。その朝顔がヘブンリーブルー(西洋あさがお)です。
市内に住む坪井さんはこの朝顔の種を人づてに入手し、この富田公民館内で様々な種類の400本もの朝顔の花を咲かせました。この日は朝顔の鑑賞会、朗読、音楽や絵画・写真鑑賞会、講演会など多彩な催しが終日行なわれました。
私は駿河台大学教授の井上久士さんによる平頂山事件についての講演会に参加しました。
平頂山事件とは、南京虐殺事件の5年前の1932年に、撫順の炭鉱の村に住む中国住民を近くの平頂山に集めて、3000人近い村民を虐殺した事件でした。
私は、この事件の詳しい内容を聞いたのはこの日が初めてです。奇跡的に生き残った被害者が証言したことから、この事件が明るみになりました。しかし、ほとんど日本では知られていないようです。
井上教授は、映像を示しながら講演されましたが、中でも、折り重なって倒れている多数の遺骨の映像は衝撃的でした。おぞましい日本の加害の歴史ですが、目をそらさず、この事実を受け止めることだと思います。きょうは長崎に原爆が投下された日、この被爆国の歴史とともに・・・。
撫順収容所にちなんで
撫順戦犯収容者の扱いは寛大だったようです。身内の者Sもその一人ですが帰国後戦犯収容所内のことは一言も口にせず、雑誌記事で知りました。しかも中国裁判では最高刑の禁固20年服役して70代で帰国しました。中国に従軍したわたしども105万も寛大に扱われ、名ばかりの俘虜でした。
さすが中国は義の国、Sらは人民裁判で死一等を減じられ、一人の極刑も出さない。しかし敗者に変わりはない。
わたしどもは上海から帰国しましたが、乗船前所持品検査があり、中国の検査官が過ぎると、一般の中国人たちの略奪が始まるので急いで品物を仕舞い込みました。その光景はすごいです。広場に数百人が靴を脱ぎ、上着のぼたんは
はずし、ポケットはひっくり返したままの姿。折りたたんだ毛布いっぱいに品物をきちんと並べる。中国語と日本語で
品名数量を記した用紙の順序通りおく。品目はナイフは不可、縫い針は3本まで、糸は200mまで、貴重品や紙幣は
ダメ…と厳しい。違反者が一人でも出ると全員乗船停止、そのため検査の予行演習を3度行い、不正品は除かれる。
予備検査のたびに、大事な物を次々捨てた。休憩中缶詰を食べようとすると、略奪に襲われるので、人垣で固める。
作戦中と立場が逆転、その一方で、中国に帰化の誘いもあり、帰化した者は3段階高遇されていた。
日本人はすぐれた人材と見て欲しがっていた。
戦争、軍人には殺しのイメージがつきまとうが…。
しかし、身を挺して同胞を護った将軍がいる。須賀川市(仁井田)出身の根本博中将、その人である。
敗戦となるや、軍首脳は「承詔必謹」唯々諾々として勅命に従った。そのため、とくに満洲在住の民間人20万人(10万人とも聞く)の多くは虐殺の悲運に泣いた。日本最強と言われた関東軍は同胞を護らなかった。
そんななかで、隣接するモンゴル在留邦人は全員無事帰国できた。根本将軍が護ってくれたからだ。
終戦時、軍(天皇)から武装解除を命じられた根本博蒙彊軍司令官は、これを拒否した。
「勅命に背き、逆賊となるとも同胞を護らん」と決意し数万の在留邦人が全員帰国するまでソ連軍と戦った。
蒙彊派遣軍(響部隊)は多大の犠牲を払い、同胞全員が帰国の途に着くのを見届けて、武装解除に応じた。
根本中将は仙台陸幼から陸士(23期)陸大では恩賜の軍刀候補であったが、「賊軍」(福島県)にはやれぬ、と外された、という。仁井田小学校高等科から安積中学(22期)聴講生として久米正雄らと机をならべた。陸軍省新聞班長を歴任したが、昼行燈といわれ、日の当たらぬ道を歩んだ。蒙彊軍はいわば3等軍司令官だ。
なお、陸士同期の県人に鈴木啓久中将(関東軍117師団長・瀋陽裁判禁固20年受刑)、大井川八郎少将(北支旅団長、安積中20期)がいる。