25日は、県議団で広野町と双葉町を視察してきました。午前中は、広野町役場で昨年12月の町長選で初当選した遠藤町長と懇談。午後は、双葉町の副町長らの案内で、帰還困難区域に指定されている双葉町の現地に入りました。
広野町は、3・11の原発事故直後は北部の一部地域(940人)が屋内退避に、13日には全町民が避難となり、第一原発から30km圏内が緊急時避難準備区域に指定されました。
しかし、翌年の2012年3月には避難指示を解除し、その年の8月には住民1人月10万円の精神的賠償について、妊婦や子どもを除いて賠償がうち切られています。
住民の帰還状況は、約5,100人の町民のうち今年7月時点で1,600人台。役場が調査したところでは約5割が戻って生活しているようだといいますが、いわき市には約3,000人が避難していますので、仮設や借り上げ住宅と自宅とを行き来している人が大半のようです。
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さて、午後は、広野役場駐車場で双葉町役場の副町長らと合流し、防護服を着て双葉町内に入りました。国道6号線を北上し、楢葉町、大熊町を抜けて双葉町へ。原発事故後は初めてでした。途中、大熊町と双葉町の入口の2か所の検問所があり、1人ずつ免許証を提示し通過。もっていった線量計もだんだんあがっていきます。
そして、双葉町役場へ。線量の数値は低い値でした。双葉町は大熊町と同様、町民の96%が帰還困難区域に指定されています。しかし、残り4%の地区は海岸に近いところで津波被害を受けた地域。そのため、全町が帰還困難区域になっています。
双葉町の役場庁舎内は、ほとんど3・11の事故当時のままでした。地震の被害も受け、災害対策本部が開かれた場所では、ボードに当時の被害情報が書き記されたそのまま残っていました。時計もその時のまま止まっています。
役場の屋上に上がると双葉町内がよく見渡せます。高レベル廃棄物を処理する中間貯蔵施設の予定地は、役場を取り囲むようにある田んぼだったところで、南は大熊町に隣接しているところまでです。
役場の東には海も見えますし、南東には第一原発の水色の建屋上部が小さく見え、北側には双葉厚生病院と高齢者向けの役場の西側に国道6号線があり、西側一帯は住宅地が広がっています。中間貯蔵施設については、石原環境大臣の「最後は金目でしょ」の発言問題にみられるように、まだ住民との合意に至っていません。
役場をあとにして、次は双葉駅とその周辺へ。「原子力のまち」の文字がむなしくなるアーチをくぐりぬけ、駅周辺へ。駅に近い歩道橋は大地震の影響か真ん中あたりが大きくズレ落ちています。
商店街は、地震の被害がひどかったようですが、まったく手つかずのままです。そこは、人の姿はなく3・11の事故の被災のまま取り残されたままになっていました。
木戸ダムを水源とする水道水がストップしているため、復旧できないでいます。ダム湖底の放射性廃棄物の除染がすすまないうえ、線量が高く被害調査にも入れない地域があるので、いっそう困難なようです。
最後に、双葉中学校へ。学校給食センターは3・11の同じ3月に完成したばかりだったそうですが、一度も使われることなく現在に至っています。中学生たちの自転車は散乱し、昇降口は卒業式を終えたばかりの雰囲気がそのまま。同行した職員のお子さんもここの中学生だったそうですが、一度来たきりでまた来たいとは言わないと・・・。
i息を呑む双葉の惨状
双葉町の現状をお知らせいただきありがとうございます。
惨状を読ませていただき、従軍中熱唱させられた「ポーランド回顧」の一節が甦りました。
♪栄枯盛衰 世の習い そのこと我は知れれども かくまで荒れしものぞとは 誰かは知らん夢にだも♪
わたしは黄金の双葉町に3年間勤めながら、原子マネーの黄金雨降る姿を指をくわえてみていました。
住むに家なく食べるにろくな店なく、足を棒にし、自力でやっと南相馬市に単身赴任の宿をみつけて通勤しました。
ところが、原発作業員などには、どんなあばら家でも、裸一貫の者を1日1000円の大枚で大歓迎していました。
町の図書館に7千町民一人10冊分の図書を充実させ、原発反対の旗手が町長となり原発増設の大籏を振った。
その零落に息を呑む一方、天地自然は公平なのだと思い知らされています。「最後は金目」はまさに至言では?