7日、駅前で郡山共同センターは、先週に引き続ききょうも大勢の参加者で、街頭募金と原発の廃炉を求める署名行動をしました。青年のみなさんとカエルちゃん、実は娘です。カエルの親子と言われて・・・!??
署名に応じたある若い女性は、実家が全村避難となった飯舘村とのこと。不安なようすでした。
【前列が伊藤さんご夫妻。高橋市議(地区委員長)と私】
ところで、きょうは私の選挙事務所に、わざわざ秋田から救援物資を届けてくれた伊藤さんご夫妻。きょうで2回目です。
前回は、私がでかけていて会えなくて残念でしたが、あの時貴重なガソリンと灯油を運んでくれて大助かりでした。
今回は、仮設住宅などに移った避難者向けにと集めてくれた食器や台所用品、座布団、下着や半袖のポロシャツなど、乗用車に山ほど積んできてくれました。
伊藤さんとは、ちょうど1年前の5月の連休、NPT再検討会議が開かれたニューヨークで核兵器廃絶のNGO活動で同じ班になり、5日間行動を共にしたメンバーです。
それにしても大震災・原発事故が発生後は、たった1年前のことでさえ、とても遠い昔のことに思えます。
新地駅の写真に感銘!
新地駅付近を見舞われ片付けに従事されたうえ、写真を載せていただきありがとうございます。
この駅はわたしにとっては青春期のシンボルでもあり、感激いたしました。
というのは、この付近は被害が大きいのに報道の空白地帯になっています。
メデアとくに中央の記者たちはほとんど見向きもしないので報道もなされません。
県内でこんなに大きな被害を受けたのに相馬地方はあまり顧みられないのが不思議なくらいです。
そんな折、お見舞いいただき写真まで掲載していただき感謝しています。
南相馬市の渋佐濱の沿岸では1800世帯が流失壊滅しましたが、報道では「1800世帯
流失」の文字が1,2度躍っただけ。相馬市の松川浦・原釜・磯部沿岸も一千戸以上が壊滅、
新地町の釣師濱・大戸濱・今泉濱も千人を超す数百戸がいずれも家も人命も喪われました。
避難できた人は皆無に近く沖に流されたものと思われます。避難者と比ベたくはありませんが
「行方不明」の文字しか残りません。その中にはわが親戚知人がたくさんいます。
クラス会などで世話になり、にぎわった旅館民宿や従業員の方々がたくさん消えてしまいました。
また風光明媚な松川浦、新地・釣師濱海水浴場はじめ数々の名所旧蹟も消えました。
新地駅近くの名所観海堂は県内最初の学校として保存され貴重な史料が陳列されていました。
それらが跡形もなくなったようです。その近くの中島集落も水没したようです。そこには親戚の
旧家もありましたが白壁の土蔵の屋根だけが残ったそうです。またその付近に観海堂の屋根
だけが流れ着き残されていたそうです。しかしその残骸も自衛隊員によって片付けられ、いまは
更地になっていると聞かされました。現場に行くにも鉄道も駅施設もなく困る有様です。
ところが、長い海岸を持つ相馬地方の被災残骸を「見物」に訪れる人が多く、車が列をなし、地元
からひんしゅくを買っている、と雑誌で知りました。福島は原発で汚名を着せられ、大被害は報道も
されず、「被災観光」では踏んだり蹴ったりです。しかし、わたしたちには、美しくゆたかな記憶が残っています。新地駅は相馬市に通う大勢の若い男女の学生たちで、朝夕にぎわっていました。
出征の日、黒山のように集まった人々の歓呼の声、大太鼓小太皷をブラスバンドにあわせ日の丸の小旗を手に手に打ち振り、駅頭は割れんばかりのにぎわいなど、しっかり胸に刻んでいます。
新地駅の遠い日のそんな思い出があったとは。私は行けなかったのですが、写真をおみせできてよかったと思います。