9/1の午後は、福島市グリーンパレスで行なわれた鈴木信さんのお別れ会でした。
戦後まもなく共産党と労働組合運動に壊滅的な打撃を与えるため1949年8月17日に引き起こされた松川事件。その被告とされ、死刑判決を受けながら14年間にわたり無罪を主張し続け、最高裁で無罪判決を勝ち取るたたかいの原告団長を務めた鈴木信さんが、老衰のため今年7/2、92歳で死去されました。そのお別れ会が、この日執り行なわれました。
鈴木信さんは、48年3月に国鉄労働組合福島管理部執行委員長、9月に福島分会執行委員長に就任。共産党には戦後まもなく入党し、47年4月の県議選に立候補。49年8月13日には、党福島地区委員長に就任したばかりでした。
その直後、松川事件の被告とされ、鈴木信さんら5人が死刑判決を受け、1949年/22~1959年7/1までの11年間投獄。有罪判決を受けた20人の原告団とともに無罪を主張し続け、最高裁で無罪判決を勝ち取るまでその原告団長として命をかけてたたかい抜きました。
松川事件は、県内外に支援の輪が広がり、松対協と呼ばれる全国の支援の会が生まれ、今日のえん罪事件を支援する原型がこの闘いを通じてつくられたという点で、歴史に残るたたかいでした。しかし、GHQの謀略によるものではないかと指摘されつつも、真犯人はいまだ闇の中です。
鈴木信さんは、67年と69年の衆議院議員選挙に立候補。77年11月~85年まで党福島県委員長をつとめました。私が、長野県から福島県郡山に戻った年に委員長を退任されたということもあり、直接知る立場にはありませんでしたが、松川事件の集会や会議等でお話を何度かうかがったことがあります。
今年10月12~13日には「松川事件無罪判決50年」が福島大学で開かれる予定ですが、それを前にしての逝去は大変残念なことです。奥様の八重子さんからも、体調が悪く出席できない代わりに、その思いも込めたメッセージが寄せられました。
また、鈴木さんは活動家でもあり、書道の大家でもあり俳句も読まれる文化人でした。「すぐ帰る、夏シャツ一枚 家あとに」の本人の俳句の色紙が参加者に配られました。