あいつぐ強い余震、原発震災事故はレベル7に

 11日夕方5時16分、福島県いわき市を震源地とする強い余震が福島県と茨城県を襲い、夜になっても連続して揺れました。きょう午後2時すぎにも突然突き上げるような強い地震があり驚かされました。

 ものが倒れるほどではなかったものの、夕べの地震でいわき市では震度6弱を観測し、郡山は5弱でした。いわき市では地滑りで家屋3棟が土砂に埋まり、16歳の女性が亡くなったほか、その後も犠牲者が発見されています。

                                  

 

 

 

 

 

 郡山では、安積町柴宮の県営住宅の1棟が11日の地震発生後から南側に傾きはじめ、昨夜はバンという大きな音が発生し、住民が消防に連絡して大騒ぎになりました。近くに住む岩崎真理子市議がそこにかけつけ、住民から聞き取りを行っています。

 きょうは、岩崎市議と一緒に、現地に行き自治会長さんや避難されている住民の方に話を聞きました。なるほど、53棟だけが全体に傾いていました。自治会長さんによれば最初は5~7cm、夕べの地震でさらに11cmくらい傾いたとのこと。

       

 自治会長さんは、今回の地震被害について、建物の外観の損傷状況と、建物内部についても各戸からアンケートをとって詳しく記録し、それを県に報告していました。

 ちょうど、県中建設事務所の職員が避難先などについて住民説明にこられました。避難先は、最初県の施設をと考えていたようですが、市と話し合い市の避難所に避難できるようになったとのこと。小学生や中学生がいる家族もいたので少しほっとしました。

 また、この報告書から県の担当者は建物から出ている音の問題に気付かされたようです。しかもその音は次第に大きくなっているようです。原因は不明なので、調査することにしたとのこと。

 いずれにしても、それぞれの事情を聞きながら今後もこの住宅に住み続けられるのかどうかを含めて詳しい調査をまず求めたところです。さらに、53号棟だけなのか、他の棟は大丈夫なのか、地盤などもめて再調査を求めたいと思います。

 一方、原発震災のレベルはINES(国際原子力・放射線事象評価尺度)では、チェルノブイリ事故と同じ「レベル7」に引き上げられました。ただし、放射線の放出は10分の1とのことですが。

 

女性支援ネットが避難所の女性専用スペースを要望

  12日、女性支援ネットワークこおりやま準備会の刈米さんが代表し、ビッグパレットに避難している富岡町と川内村の合同災害対策本部に対し、女性専用避難場所の設置を求める要望書を提出しました。私も同行しました。

 これは、長引く避難所生活の中で、若い女性に対し、ふざけてくる男性がいていやな思いをしているなどの切実な声があがっていることから、性暴力からの被害を防止するために避難所の監視や見回りなど行い、できれば専用スペースの設置をと求めたものです。

 ビッグパレットでは富岡町の副町長、川内村の総務課長さんが要望書を受け取りました。このあと郡山市の災害対策本部にも出向き、総務部課長さんと保健福祉部次長さんが応対し懇談しました。

「わあ、馬場議員さん、よく来てくれたね」                                           顔なじみの町民に会えて馬場町議も笑顔

 10日、きょうも浪江町議の共産党の馬場議員と共に、浪江町民が避難している郡山市内の県立高校と県農業総合センターの避難所を訪ねました。

 

 ある県立高校に行くと、浪江町の職員が常駐していて、体育館内で町民に集まるようよびかけてくれました。馬場議員から避難者に要望を促すと、「温泉や旅館など町から指定されたスキー場などの宿泊所は、市街地から遠すぎて不安。子どもの学校をほぼ決めたあとに、二次避難場所が決められてきたが、順序が逆じゃないか」など、次々と意見が・・・。

 「新しい仕事をさがすにも、他に避難していたら捜せなくなる気がする。まったく知らない土地で子どもたちを通学させることも不安。町の職員が避難所に来て説明をしてほしいし、要望も聞いてほしい」と。

 避難して来て、町民同士が集まってみんなで話合いをしたのは、きょうが初めてとのこと。きょう、馬場議員と町民がつながり、率直にみんなで話合いをしたことで、今後の共通問題が見えてきました。

 個別の事情をうかがい終わると、1人の女性がそっと寄ってきて涙でいっぱいになりながら切ない思いを打ちあけてくれました。

  県農業総合センターでは、馬場議員と聞いてびっくりされ、「馬場議員、久しぶりだね。よく来てくれた。会いに来てくれてうれしいよ」と、顔見知りの酪農家夫婦にも喜んでいただきました。私も何度か炊き出しなどでお邪魔して浪江町の方がいるのを知っていたので、ようやく実現できて肩の荷が少し降りた気がします。地縁・血縁は、何と言っても強いのですから。

 

 要望を述べていた方が最後に涙ながらに訴えられました。「私たちが一番望んでいるのは、仕事をしたり、学校に行ったり、病院に通ったり、そんな普通のくらしをしたいだけです。ただ、それだけなんです・・・。せめて、それに近い形になるよう、ぜひお願いします」と。

 今度の大震災と原発事故で、この地域の絆、これまでのあたり前の生活がすべて断ち切られ、避難所も転々と移動させられている。今後の生活の見通しも立てられない。そのやりきれない怒りをどこにぶつけたらいいのか。

 最悪の原発事故が起きたことが、根本原因です。これが困難さを増幅しています。東電と国に、全面補償を!の声をみんなであげていきましょう。

避難者と党町議がつながって、要望次々と                                     青菜が入った野菜たっぷりのあたたかい郡山共同センターの炊き出し

 浜通りから避難している住民がいる県立高校を昨日の夕方訪ね、要望を伺っていたところ、町役場となかなか連絡取れないでいることがわかりました。

 聞けばほとんど同じ浪江町民の方々です。早速、地元の党議員馬場町議に連絡したところ、すぐ訪ねてみたいというので、きょう馬場議員と再度同じ避難所を訪ねました。

  馬場議員は、避難先の二本松市から下着や衣類などの救援物資を車にいっぱい積んでやってきました。避難所では早速、必要なものをとっていただきました。

 避難所内で町民の方に集まっていただき、さっそく馬場議員が相談に応じました。子どもの学校の手続きが済んでいなかった家族には、馬場議員がその場で町の教育委員会へ連絡をとりました。

 ともかく、こうやって郡山市内の避難所に来てくれたのは馬場議員が初めてとのこと。地方議員との連携プレーできるのも共産党ならではです。

 着の身着のままで避難させられ、しかも避難所を転々とさせられる住民の立場から見れば、行政からの情報も乏しく、県や市町村の対応がよく見えてこないと思うのは当然です。

 県では県立高校がそろそろ新学期を迎えるため、当面仮設住宅が建設されるまでの間、あるいは民間住宅などへの入居が決まるまでは、浜通り地方の住民に温泉地など市町村ごとにエリアを決めて移動をすすめています。もちろん、市や県の施設などで避難所くらしを続けざるをえない人はまだまだ大勢います。

 しかし、一律に割り振られてもそうはいかない場合もあるのに、県は市町村ごとに決めたエリア内でと、なかなか柔軟に応じようとしません。この移動に対する不安や今後の生活の居場所をどこにしたらよいのかの迷いも率直に出されました。医療に関する質問が出て、私も県や国に尋ねているところです。

  震災・原発事故からほぼ1ヶ月になろうとしています。明日もまた馬場議員と共に、市内の避難所を訪ねる予定です。

  夕方は、県農業総合センターと市総合福祉センターの2ヵ所の避難所へ救援活動共同センターのみなさんと炊き出しをして届けました。野菜たっぷり、実だくさんのあたかい汁ものの炊き出しはとても喜ばれました。

全国から共産党へ寄せられた義援金は4億超                                                        福島県内の被災21自治体に8,300万円届けて

 共産党へ全国から寄せられた被災者救援募金は4億円を超えました。その義援金の中から、福島県内の被災自治体へ直接届けた義援金は合計8,300万円になりました。

 全国のみなさん、本当にありがとうございます。被災自治体からは大変びっくりもされ、もちろん首長さんからは大変感激をもって受け止められたことをお伝えします。

 【4/7日、赤旗1面】

 福島県へはすでに1,000万円を届けたほか、原発の事故で役場ごと避難している被災自治体13市町村へ第一次分として500万円ずつ、第2次分として8町村へ100万円ずつの目録を届け、それぞれの自治体の指定口座へ振込みました。

 私たちは、義援金を届けながら、避難されている被災住民のようすや、特に役場ごと避難を余儀なくされている原発立地地域の首長さんから国や県への要望をうかがいました。

 それぞれの首長さんは、住民のことや今後の自治体のあり方などについて話をし、率直に心情も吐露してくれました。

 私たちは、これをそのまま菅内閣の閣僚と菅首相にもその声を届け、また国会論戦でも被災地の生の声として届けたり、また県政や県議会でも申し入れの内容に生かしています。

 特に、原発被災自治体では、わが党議員が救援活動や町議会でも奮闘し、原発事故による風評被害まで含めた全面補償を迫ろうと、バスをしたてて議会の意見書を国会へと届けることにしたという、浪江町議会のような市町村が次々とでています。

 とにかく、今回の地震、津波、原発事故、風評被害、情報不足までふくめ、四重苦、五重苦の人災を負わされた福島県は、他県とは別の苦労を伴っています。国と東電へみんなでこの切実な声と全面補償の声をあげていきましょう。全国のみなさん、ご一緒に頑張りましょう。そして、一斉地方選挙で全国の自治体で共産党の議席を増やすよう、ご支援ください!

県議会の災害対策本部でヘリで被災地を現地視察                                                           県内の避難者は8万5,000人以上          

7日、県議会の災害対策本部で被災地の現地視察を行ないました。自衛隊の大型ヘリを借りて空中から浜通りの海岸線の集落をみました。

防護服を着せられて、郡山陸上自衛隊駐屯地をヘリで出発し、福島県と茨城県との県境の勿来へ。そこから北上し、勿来共同火発、小名浜港、いわき市の美空ひばりの歌碑がある塩屋崎灯台へ。その先から原発避難区域の20キロ~30キロ県内の半円を避けるため、内陸側に入りました。

 

   

          【塩屋崎灯台(上)付近は無事でしたが、北側の海岸線(下)は津波被害の惨状がありありと】

 

 宮城県境の新地町と相馬市の上空から海岸線や漁港をみると、宮城県の三陸や陸前高田市と同じように、津波被害で壊滅的な打撃を受けたことがわかります。風光明媚な松川浦も津波で壊滅状態でした。   【家屋も人も農地も、津波に飲み尽くされて】  【相馬港と原釜漁港も壊滅的打撃】     

 

 

 

 県のテクノカレッジ浜(浜技術専門校)のすぐそばの空地にへりは無事着陸。約1時間半の飛行でした。テクノカレッジ浜で、おにぎり弁当の昼食をとったあと、同校で相双振興局から説明を受けました。

                        

【相馬市内の街があったはずなのに、瓦礫と化して】

 議会のマイクロバスで、南相馬市内、相馬港、相馬市内をめぐりましたが、どこも町全体が瓦礫の山で手つかずの状態。あまりの惨状に言葉もありません。

 重機が入っていたところも、遺体が中にあるかもしれないため、皮をはぐように少しずつ少しずつ作業していました。場所によっては、県警の捜索隊や地元の消防団がドロの中をさぐっているようすもみえましたが、まだ始まったばかりです。誰かを捜している夫婦の姿もありました。

 災害復興をどうすすめるのか、原発事故の収束は? どちらも福島県に大変大きな課題であることを実際にみてあらためて実感しています。

原乳出荷停止の酪農家の苦悩、障害者授産施設が地震被災

 5日、3人の市議団とともに石筵地区の酪農家の橋本整一さんを訪ね、原発放射能の影響で福島県全部の原乳が、出荷停止となった影響について聞きました。

 「えさを少なくしていたが、牛が腹をすかして牛舎の入り口に立つと一斉に立ち上がって俺を見るので、少し配合飼料を増やしてやったらおとなしくなった。

 毎日搾った牛乳を捨てているのは本当に腹ただしい。仲間と東京電力への抗議行動をやろうと話あっている。                  

川俣で基準値を超えた原因は、えさでなく水が原因だと思う。ここは、井戸水を使っているが、われわれには何の落ち度もない」と怒りは頂点に。原発さえなければ・・・。本当に恨めしい心情がひしひしと伝わってきました。

 【ホールクロップサイレージ。発酵している干草は、すっぱいにおいが。牛が喜ぶえさです】

    【被災した「あだたら育成園」を案内していただいた次長の渡辺さん】

 夕方は、震災で地盤沈下したという大玉村にある障がい者授産施設「あだたら育成園」の調査に行ってきました。    

   入り口ドアの前は大きく陥没し、職員がいる事務所は「危険」のレッドカードが張られています。重度障がい児が入所している施設も、地盤が下がり続けているため床も入り口の西側に向かって下がっています。特に、厨房と食堂の一部の壁がはがれ落ちたり、床が損傷したり梁にも隙間が出てしまっているなど、そのゆがみによる影響があちこちにみえます。

                         この施設は、山を削り盛り土で造成した地盤に建っています。敷地内の少し高い場所にある別の入所施設はなんともないのですが。

 震災直後は、体育館へ避難させていたのですが、場所と環境が変わった知的障がい児は3日間くらい非常食を出してもほとんど口にしなかったそうです。

 そこで、危険を承知の上で、食事の時だけ職員みんなで移動させ、食堂で食事をとるようにしたらようやく食べてくれるようになったと言います。

 実は、県の補助で新年度に耐震化工事とスプリンクラーが設置される予定だった施設です。でも、震災で地盤そのものがゆるくなった以上、この場所への再建は無理です。

 それにしても、職員に一度現場を見に来てほしい、今後の相談もしたいと依頼しているのに、県の出先からも未だに来てもらっていないとのこと。さっそく担当部へ連絡をとり、まず電話で実情を聞くようお願いしました。

福島労働局へ申し入れ

 4日、党県災害・原発事故対策本部は県労連とともに、福島労働局への申し入れを行ないました。

 要望は3項目で、①雇用調整助成j金の柔軟な活用、②雇用保険の失業給付については、30キロ圏外でも特例として認めること、③避難所に出張所をおいて、福祉の窓口とのワンストップの相談ができる体制をとること。特に大規模な避難所には、常駐することを求めました。

 佐藤俊彦福島労働局総務部長は、震災後いち早く雇用の巡回相談を行なってきたと述べ、震災直後は生活相談や不安など、労働相談以外のさまざまな相談が多かったそうですが、それらにも対応してきたといいます。

 最近は少し気持ちが落ち着いてきたようで、仕事の再開見通しについての相談や短期や出稼ぎ求人情報が゙ほしいなどに変化してきたといいます。

私たちからは、せめて1,000人以上いる郡山市のビッグパレットと福島市のあづま総合体育館の避難所には、常駐をと再度求めると、これについては検討すると前向きな回答をいただきました。

 それにしても労働局のマンパワーが不足しているようです。国は15人~20人くらい職員派遣をするようですが、佐藤部長もいうように原発震災による他県とは違う困難さがあると、国にも強く求めていると述べました。

第3回県議会災害対策本部会議                                                                       畜産農家や野菜農家から聞き取り、浪江津島畜産協議会が県へ要望                                                                   

 きょうから4月1日で年度は新しくなりましたが、今年は大震災と原発災害に見舞われたため県職員や教員の人事異動もなく、県議選も大幅に延期となったことから、新年度という雰囲気がない、全く異常な状態にあります。

 3月11日の被災からきょうでちょうど3週間。ガソリンや灯油が1昨日あたりからようやく通常どおり供給されるようになって明るい気持ちになったものの、一方でいまも東京電力第一原発1~4号機の炉心と燃料プールの冷却が収まらず、避難者も多数の状況に変わりがありません。

 原発立地地域の避難指示や避難勧告、自主避難した人や中通りを中心に地震などで被災した人など県内に約8万5,000人、県外に約2万2,000人、合わせて10万7,000人が避難。福島県の人口は約202万5,000人ですから、その5%が避難者なのです。

 ただ、4月以降は学校が通常よりも遅れながらも新学期ガスタートするため、避難所から温泉地やホテルへの移動、民間アパートや公営住宅への移動が少しずつ始まります。そういう意味では、1つの転換期にさしかかっているといえます。  きょうの午後、県議会の第3回災害対策本部会議が開かれ、これら被災者の今後の対応などについて意見交換し、来週には被災地の現地視察を行なうことにしました。

      【3/14の第1回県議会災害対策会議】          【3/25第2回対策会議】

 ところで、きょう午前中は郡山地方農民連の宗像会長と共に、地元中田町の畜産農家や野菜農家など4件訪問し、実情や要望を聞きました。

 

 

 

 肉牛の肥育農家は、せりに出しても安く買い叩かれそうだ。そうなればえさ代などの経費は全くでないことになり経営は苦しくなる一方。加えて風評被害はずっと続けばこの影響も大きいこと。

 野菜農家も出荷停止という状況がいつまで続くのか、原発事故によて土壌はどうなっているのかなどの不安や見通しがみえないことが話されました。

 いずれにしても、原発事故による被害であり、その補償は風評被害も含めて東電と国へ要望していこうとなりました。

 浪江町の津島畜産協議会の要望は、原発事故で半径20期キロ以内と20~30キロ圏内の家畜に関して、餓死牛や野放し牛の扱いまで含めた行政の対応についての申し入れです。浪江町の馬場党町議が津島畜産協議会の会長として、県庁内で畜産課ヘ要望書を提出しました。

避難所でラーメンの炊き出し                                        奈良県から駆けつけたラーメン屋さんご夫婦

  28日の夜は、避難所の炊き出しへ。この日は、朝早く奈良県からわざわざボランティアでかけつけたラーメン屋さんの申し出を受けて、今回初めて避難所でラーメンの炊き出しを行ないました。

 しかし、この日は日中から気温が低い日。寒い外でのラーメンの振る舞いは、並んでもうらにも気の毒なくらい寒いので、入り口付近の屋内で順番を待ってもらいました。

  【後列のお2人が奈良県からかけつけてくれた吉田さんご夫妻】

 私たちも寒さに震えながらも150食を何とか提供し終えた時にはすっかりお腹も空き、体が冷え切ってしまいました。でも、最後にみんなで食べたラーメンはおいしかった!