11/3憲法記念日の夜、父がお風呂の洗い場で倒れて心肺停止状態で救急車で運ばれ、搬送先の病院で亡くなりました。89歳でした。
私は、11・2原発ゼロ集会と翌日の全国原発学習交流会と会議を終えて帰宅。自宅近くに救急車が止まっていて、車が出る直前に間に合いました。父が待っていてくれたのかもしれません。
今年の夏までは、家の周りの草を草刈機で刈っていましたが、もう腰が痛くてできないとお盆以降はベッドで寝ていること多く、足腰も弱くなり、食事もほとんど受け付けなくなくなっていて、お風呂だけはなんとか自力で入っていました。
最後の1週間は、家族も心配でときどき入浴中は見に行っていた矢先でした。でも、外傷もなくそのまま息を引きとったようです。
父は、20才そこそこで徴兵され、朝鮮半島からシベリアへ抑留され、戦後3年たってから帰国。帰国後、母と結婚。私たち4人姉妹は、小さい頃から父の戦争体験を聞いて育ちました。
農業一筋に生きた父は、米づくりをはじめ養蚕、葉タバコなど1年中忙しい傍ら、若いうちから祖父の代わりに町内や地域の活動にかかわってきました。
私の小学校時代にはPTA役員にもなり、PTA会長さんらとともに当時市内でもいち早く学校給食の実施やプールの設置などを市にかけあい、実現したようです。
母が3年前に亡くなってからは、父も寂しい思いをしていたようですが、私が議会活動などで忙しいと思ってか、自分でできることは自分でやっていました。最後までボケもせず、私たちに大した苦労もかけずに亡くなりました。
たくさんの人に支えられて、苦労もありましたが、幸せな人生だったと思います。これまでのご厚情にお礼と感謝を申し上げます。ありがとうございました。
「戦争のない平和な日本を」、これが父の遺した思いです。私もこの思いを胸に、子どもたちや孫の未来のためにも頑張っていこうと思います。