いわき市議選で4人全員当選/きょう大震災・原発事故から1年半、除染・賠償・被災者支援すすまないのに9月末で打ち切り?

いわき市議選は、9日に開票が行なわれた結果現職4人が全員当選しました。私たち県議団や県内から、そして全国からも支援に駆けつけていただき、みなさまの大きなご支援にあらためて感謝申し上げます。

今回は、消費税増税法案を民主・自民・公明の3党が強行採決したあとの選挙戦でした。

共産党は、消費税増税なしでも社会保障も財政再建の別の道がある対案を示していることを示し、2014年4月実施までには1年半もあることから、この間に実施中止を求めるたたかいを起こしていくこと。

そして、消費税を増税した3党への厳しい審判を市議選でも、秋の解散総選挙、来年7月の参議院選挙でも厳しい審判をと、私も街頭から訴えました。

さらに、外交問題になっている領土問題についても、尖閣諸島も竹島も千島列島も日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかです。

ただし、竹島については、1905年にわが国へ編入した当時が、日本が侵略戦争をすすめ韓国併合する過程と重なっています。韓国は、事実上の外交権を奪われ、国際社会に訴える術を持たない中で編入したのでした。

日本政府が、過去の侵略戦争について政府として反省を示すことなし、話合いのテーブルにつく土台もできません。そうした外交努力とその上で日本の領土であることを冷静に道理をもって主張すべきです。領土問題では、日本政府の外交力が問われているからも訴えました。

最終盤にも街頭から訴えていたら、県営住宅の3階の窓からお年寄りの女性が「頑張ってー。年寄りのことお願いしますー」と泣くような声で激励されました。別の演説箇所でも「年寄りのための政治をぜひ」と握手されました。その切実な声と表情が忘れられません。

このことは、県政にも,そして総選挙でも問われます。民主党も自民党も総裁選びで右往左往していますが、党内事情よりもこの間の政治,特に震災・原発事故への対応についても、この間採決した増税法案、そして原発再稼動、TPP問題、オスプレイ配備など、民主・自民・公明の3党のあり方が厳しく問われます。

福島・宮城・岩手の被災3県は、昨年の3・11大震災、原発事故からちょうど1年半たっても復興にまだ踏み出させず、多くの命がうばわれたままなのです。特に、原発放射能対策は今後長期に必要です。原発も収束などしていません。それなのに、支援打ち切りだけは実施するというのでは、被災県民は救われません。原発ゼロ、国民の命と暮らしを守る、真の政治改革をしていきましょう。共産党を、国政でも大きく伸ばしてしていただくよう、心からお願い申し上げます。

地元中田町宮城小学校区の通学路整備、石切り坂バイパスについて県へ要望

                        【ガードレール部分が狭い県道小野郡山線、旧宮城支店付近の歩道】

去る8/3に県中建設事務所へ要望していた通学路整備について、9/7にあらためて対応状況について尋ねました。通学路の歩道整備については、最近、通学時の児童を巻き込む死亡事故が相次いでいることから、PTA会長からも地元町内会からも要望されています。あわせて、現在工事中の石切り坂バイパスの進捗状況についても尋ねました。

                        【9/7 県中建設事務所で、石切り坂バイパス工事や歩道整備の説明を求めて】

宮城小学校区の宮ノ脇~赤沼橋の間の通学路の歩道については、以前設置した反射ポールを再度要望し、このほど整備されました。また、石切り坂バイパスにつながる旧JA宮城支店向いの歩道については、石切り坂バイパスの工事に合わせて歩道を延長し整備する方向で検討をすすめていると県が回答しました。

一方、1日に8000台の通行量になっている「石切り坂バイパス」の本体工事については、今年12月末までに、宮城小学校前の交差点のボックスカルバートを完成させ、新県道を西側の郡山市農道交差点まで進めるとのこと。近くのガソリンスタンドもこれに合わせて移転するようです。

また、バイパス工事全体にかかる予算は、すでに確保されているとのことですが、工事完成年度は今後1年半以上もかかる予定で、遅くも2014(H26)年の上半期の完成をめざしているとの説明でした。

しかし、ここは冬場の交通の難所、長年にわたる中田町のみなさんの悲願となっています。私が最初に立候補した91年に石切り坂改修を掲げてからもすでに21年。1日も早い完成を求めます。

 また、この日は三穂田町山口の県道長沼・喜久田線の側溝改修と、県道にはみだしている樹木の伐採も要望しました。最近の豪雨続きで、歩道の内側が10cm以上もえぐれて危険です。現地調査の上、改修を要望しました。

福島の画人「米倉兌・廣長威彦展」の角館へ

 10日、先日のブログで紹介した福島の画人「米倉兌・廣長威彦展」の最終日の10日、秋田仙北市立角館町平福記念美術館へ行ってきました。角館は、前日の9/7~9まで10数の山車がでる大層なお祭だったそうです。

           【会津の冬シリーズを描いた版画と廣長さん】

さて、今回の絵画展は、”東日本大震災復興支援 がんばろう福島! ”を掲げ、郡山市在住の廣長さんが、30年来にわたって通い続けている角館町のみなさんの協力を得て、親交が深かった福島市出身の米倉さんの絵画も一緒に展示しました。

米倉兌(とおる)さんは、2000年に87歳で亡くなっていますが、福島市に生まれ、1934・42年には二科展に入選されています。戦後、福島市に移住し福島県美術協会会員となり、72年まで県立高校の美術教師でした。1972~92年まで、三越日本橋本店はじめ札幌~鹿児島各店で墨彩展を開催されています。私は、今回の絵画展で米倉さんという画家を初めて知りました。

さらに驚いたのは、この2人と親交があったという故斎藤清氏の版画5点も「特別賛助展示」として展示されていたことです。斎藤清氏といえば、福島県会津坂下町出身の国際的な画家です。会津の冬シリーズを版画と墨絵で制作された貴重な収蔵版画ですが、この3人の親交があったことが今回の展示された写真などで知りました。

廣長さんとお二人とは、親子ほどの年の差もあるそうです。この日は、米倉さんの娘さんのフリーライター米倉みなとさんにもお会いすることができました。   【故米倉兌さんの絵をバックに、廣長威彦さん、米倉みなとさん(中央)とともに】

廣長さんは、郡山市生まれで現在も居住されています。廣長さんはすごいなと思うのは、1960年から富山県五箇村の合掌造り写生を機に、オートバイで1人で全国の民家写生行脚を始め、以来50年以上にわたり77歳になる現在も続けていることです。

油彩画も水彩画も得意としていますが、民家シリーズは全国の消えゆく民家を記録に残そうと、主に版画で表現しています。特に、冬の降り積もった民家の版画はみごとで、斎藤清氏の版画を思わせる画風です。

米倉さんは孤高の画家、廣長さんも無所属です。お二人とも、福島県出身の画家として大きな功績を残されています。しかし、残念なことに、福島県にも福島市にも郡山市にも、その作品の展示や収蔵もありません。斎藤清氏についても県立美術館に絵画あるといってもまだ少なく、国内外の評価にふさわしい位置づけがなされていないように思います。

公立美術館と学芸員などがその専門的立場から、所属があるなしにかかわらず、県内出身の画家についてはもっと光をあてて発掘と評価を行ない、必要な収蔵をする必要があるのではないでしょうか。

【角館も30度近い暑さ。平福美術館がある武家屋敷通りでちょっとソフトクリームで一休み】